夏休みになると、クラブに入っていない僕は、とたんに退屈になってしまった。毎日テレビを見て過ごす時間がとても長い。
そうすると、つい数日前までは一緒に机を並べていたり、廊下で擦れ違っていた女の子たちが、テレビのブラウン管の中で歌ったり踊ったりしているのを見る機会もとても多かった。
それはなんとも不思議な感覚だった。
そんなとき、お昼のトーク番組に観月唯香が出ていた。
唯香は、テレビに出ているときも普段と全然変わらない。その裏表のないキャラが人気の秘密なんだろう。
そんなことを考えながらテレビを見ていると、電話が鳴った。
「ねえ、相原君、暇してるでしょ?」
いきなりそうやって決め付ける電話の主は他でもない、ブラウン管の中で屈託のない笑顔を浮かべながら明かるく話をしている唯香なのだった。
電話を耳に当てながらテレビを見ていると不思議な気分だった。
電話の内容は、いま東京クイーンズホテルにいるから、暇なんだったら、ちょっと出て来ないかっていうことだった。
暇、暇と繰り返されてちょっとむかついたけど、本当に暇だったし、東京クイーンズホテルなんて場所はこんなことがなければ行く機会もないだろうから、と思って僕はノコノコと出掛けて行ったのだった。
* * *
高級ホテルのロビーなんて、普段僕が過ごしている場所に比べると別世界のようだ。
ちょっと緊張しながら足を踏み入れると、その場にふさわしくないミニスカートにTシャツ姿というラフな格好の唯香が僕を出迎えてくれた。
ロビーのソファーに腰掛けて僕が来るのを待っていてくれたのだ。それでも一応は他人の目を気にしてか、唯香はサングラスをかけている。
高級ホテルのロビーとラフな服装とサングラス。なんとも怪しい少女の存在は、かえって目立ちすぎのように思えるんだけど……。
「どうしたのさ? 急に呼び出したりして」
僕はわざとぶっきらぼうに言った。本当はうれしくてしかたがなかったんだけど……。
「ちょっと時間が空いたのよ。本当はロケがあるはずだったんだけど、主役の女優さんが失踪しちゃって……」
「失踪?」
「たまにあるのよ。失踪って言ったってたいしたことじゃなくって、そうやって自分がいなくなって周りの人が困るのを見て、自分がどれぐらい必要とされているのか確認するっていう、下らない芸能人病っていうか……」
なるほど。やっぱり芸能界っていうのは、なかなか大変な世界だ。
「で、こんなところに僕を呼び出したのはなぜ?」
「水泳を教えてほしいのよ。相原君は上手いんでしょ?」
「うん、まあね
自慢じゃないが、僕は水泳だけは得意なのだ。○輪明宏に前世を見てもらったら、きっと「河童よ」と言われるに違いない。
「でも、どうして急に?」
「いま撮影してるドラマの中で、プールで泳ぐ場面があるのよ。だから、ちょっとでも格好よく泳げるようになりたいの」
唯香の目はいつになく真剣な光を放っていた。
まあ、それぐらいならお安い御用だし、そうやって頼ってくれるのはうれしかったりもする。
「ああ、いいよ。でも、水着が……」
「大丈夫です。こちらでちゃんとご用意してありますので」
いつの間にか横に立っていたスーツ姿の男が袋を指し出した。
「……あなたは?」
「申し遅れました。私、観月唯香のマネージャーをさせていただいております」
男は内ポケットから名刺を取り出した。
その横で唯香はニコニコ笑っている。
やっぱりな。まさかデートの誘いじゃないとは思っていたんだ。
* * *
ホテルのプールなんて初めて来た。
さすがに市営プールとは全然違って、やたらと豪華だ。
プールが長方形じゃなくてひょうたん型をしているということが、またカルチャーショックだった。
これじゃあ二十五メートルのタイムを計ったりできないじゃないか。といっても、だいたい、泳いでいる人がほとんどいない。
みんなプールサイドのデッキチェアーに横になっているだけだ。
なんのためのプールなんだろう?
僕なんか、こんなに空いているのに泳がないなんてもったいないなあ、なんて気になってしまう。
「お・ま・た・せ」
プールサイドで所在なさげに立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。
振り返ると、すぐ目の前に水着姿の唯香の姿が!
唯香は赤いビキニを着ていた。
特になんの根拠もなくスクール水着を想像していた僕は目のやり場に困ってしまい、慌ててプールに飛び込んだ。
静かなプールサイドに水のはじける音が響いた。
「うわぁ、やる気マンマンね」
僕が飛び込んだのは、もう泳ぎたくて仕方がないからだと思ったらしく、僕に続けとばかりに唯香も飛び込んだ。
その飛び込みのフォームは美しかった。
さすがに他人に見られるのが仕事のアイドルだけある。
しかし、その後がよくない。
水面に顔を出した唯香は必死で水面を叩いているのだが、それは泳いでいるのか溺れているのか見分けがつかない。
慌てて手を差し伸べると、唯香は必死の形相で僕の手を払いのけるのだった。
「ちょっと、邪魔しないでよ! 溺れちゃうじゃないの!」
どうやら泳いでいるつもりらしい。
でも、この泳ぎじゃ、ドラマのワンシーンで使うのは無理だろう。コメディーだったらわかんないけど……。
唯香はバシャバシャと水を跳ね上げながら、プールの中を丸く泳ぎ、プールサイドにつかまって、ようやく僕の方に視線を向けた。
「泳げないわけじゃないのよ。だけど、やっぱりちょっとあんまり格好よくないような気がして……」
負けず嫌いの唯香のことだ、水泳の授業でも誰にも負けたくないだろうから、一応泳ぎはマスターしたのだろう。
しかし、唯香の泳ぎにはまったくセンスが感じられない。だけど、そのがむしゃらさ加減は変に僕の心を打ってしまった。
「その泳ぎでいいんじゃないのかな?」
それは本心だったのだけど、唯香はバカにされたと思ったらしく、ムッとしたような表情を浮かべた。
「なわけないでしょ! 教えてくれるの、くれないの? どっち!?」
そう詰め寄られると、まさか教えないとは言えない気弱な僕だった。
そして、特訓は開始された。
「水を後ろに押し出すようにして、サーッと水の中を滑り、余裕をもって、慌てないで、落ち着いてやればいいんじゃないかな」
そう言って僕が唯香の目の前で泳いでみせて、それを彼女が真似た。
日頃の偉そうな口調からは想像もできない素直さで、唯香は僕の指導に従った。格好よく泳げるようになりたい、という意志がひしひしと感じられる。
でも、一度身に付いてしまった癖はなかなか拭い去れない。
そのことが悔しいのか、唯香の肩にはさらに力がこもるのだった。
「硬くなっちゃだめだ。力を抜けば、水と一体になれるんだ」
僕のアドバイスを真剣な表情で聞くわりに、唯香は相変わらずガチガチに力んでいた。
今日しか時間がないからと言う唯香の申し出もあって、僕たちの特訓は延々と続いた。
「ちょっと、休憩しようよ」
ずっと水に浸かっているために、指先がふやけてきていた。しかし、唯香は練習をやめようとはしない。
僕は救いを求めるようにプールサイドのパラソルの下で日をよけているマネージャーに視線を送ったが、彼はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
マネージャーの態度から、唯香はいつも一度言い出したら、それを成し遂げるまでは誰の意見も聞かないのだろうということがうかがえる。
もう一度プールに視線を戻すと、やっぱり唯香は僕が教えたとおりのフォームを心掛けながら、泳ぎ続けているのだった。
その姿を見ていると、最初に唯香の水着姿を見てエッチな気分になったことが恥ずかしく思えてくる。
その罪滅ぼしというわけでもないが、僕も唯香と並んで泳ぎながら、手本を示してあげ続けた。
唯香は僕の動きを忠実に真似ようとする。僕たちはプールの端から端まで、何度も往復し続けた。
気がつくと、あたりは薄暗くなってきていた。
いったい何時間こうやって泳いでいたのかわからないが、プールサイドにいた人達が誰もいなくなっていることからも、ずいぶん長い時間泳ぎ続けていたことは確かだった。
唯香の表情にも疲れが見られ、唇は紫色になっていた。それでも目だけは強い光を放っている。
彼女を見ているだけで感動してしまう。それが本物のアイドルってものなんだ、という気がした。
「だいぶ良くなってきたんじゃないかな」
と僕は言った。
それはお世辞じゃなかった。泳ぎ疲れて力が抜けてきたせいか、唯香の泳ぎはだいぶスムーズになってきていた。
「ほんと? 私の泳ぎ、カッコイイ?」
褒められたら疑わずに素直に喜ぶ。唯香のそんなところが、きっと全国の男たちの心を釘付けにするのだろう。
もちろん、僕の心も。
だから僕も彼女の前ではごまかしたり、嘘をついたりは絶対にしない。
「うん。カッコイイよ。最初の泳ぎとは別人のようだ」
唯香はプールサイドをつかんで立ち泳ぎしながら、得意気に胸――赤いビキニに包まれた胸を張った。
* * *
二週間後、唯香が出演したドラマが放映された。
唯香は主人公の女優(失踪騒ぎを起こしたあの女優)の娘役で、母親の手を振り切って制服姿のままプールに飛び込み、反対側まで泳ぎきる、というシーンを完璧に演じきっていた。
ほんの短いシーンだったが、その裏には、指がふやけきってしまうほどの長時間の特訓があったのだ。
でも、そのことを知ってるのは、唯香とマネージャーと僕だけ。
テレビの前で、僕は特別な存在になれたような気がしていた。
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