卒業式のために久しぶりに登校した学校は、もうずいぶん懐かしい感じがした。
年明けに少しだけ授業はあったものの、三年生は受験を控えているために、すぐに休みになってしまっていたのだ。
だから学校の友だちと会うのは本当に久しぶりだ。
といっても品田と岡村にはしょっちゅう会っていたんで、このふたりに関してはぜんぜん懐かしくないんだけど……。
だけど、そんなふたりとは違って、桜井美奈子はすごく懐かしい。
美奈子は最難関といわれる私立大学に合格したということを岡村から聞いていた。岡村は芸能情報だけじゃなく、クラスの女の子の情報にも通じているのだ。
最近では、岡村は将来、週刊誌の記者になりたいという夢を打ち明けるようになっていた。これだけの情報収集力があるんだから、きっと優秀な記者になることだろう。
「おめでとう!」
教室に入ってきた美奈子に僕は自分から声をかけた。
「ありがとう」
美奈子は照れ臭そうに微笑み返した。
こうやって言葉を交わすのは、去年のクリスマスパーティーの席で美奈子から告白されて以来だった。
結果的に美奈子の気持ちに応えられなかったということもあって、なんとなく話し掛けにくかったのだ。
でも、日差しがすっかり春めいたものに変わったいま、もうすでにあの日のことはちょっとしたほろ苦い感情とともに思い出す懐かしい出来事になってしまっていた。
「相原君も合格したんでしょ? 岡村君から聞いたわよ。おめでとう」
美奈子は笑顔でそう言って、親しげに僕の胸を拳で小突いた。
「うん。桜井さんに勉強を教えてもらったおかげだよ」
たまたま足を踏み入れた図書館で美奈子に会った日のことを思い出した。静まり返った図書館の中で交わした筆談が懐かしい。
僕が懐かしがっていると、卒業生は講堂の前に整列するようにという校内放送が流れ、僕たちはゾロゾロと教室を出た。
日陰はまだ肌寒いが、日の当たっている場所に出ると汗ばむような陽気だ。日差しはもう完全に春のものだった。
「ううぅ……、いい気持ちだなあ」
大きく伸びをした僕の後頭部が「パン!」と小気味いい音を鳴らした。誰かが平手で叩いたのだ。
「痛ッ!」
振り向いた先には観月唯香が悪戯っぽく笑っていた。
「ドッキリテレビでした!」
そう言うと、唯香はプラカードでも持っているようなポーズをしてみせた。
そりゃあ、ドッキリはしたが、そんなもの、騙されないように防ぐなんてできないじゃないか。
そもそも僕は騙されたわけじゃなくて、殴られただけなんだし……。
そう文句を言おうと思ったが、その前に唯香はひとりで楽しそうにケラケラ笑い、ミニスカートの裾を翻しながら講堂の方に駆けて行った。
「あれがいまの日本を担っているトップアイドルの素顔か……」
しみじみとつぶやき、岡村は熱心にメモを取っている。
「そのメモ、何冊目?」
岡村はパラパラとページを捲り、
「五十七冊目かな」
となんでもないことのように言った。
「あ、そ。すごいね」
僕はそう応えるしかない。
*
講堂には、すでに在校生と父兄たちが着席していて、僕たち卒業生が入場してくるのを待っていた。
講堂の外に整列した僕たちは、音楽に乗って入場する。
そんな段取りを踏まされると、なんだか気持ちが冷めてしまうじゃないか、と思っていると、まだ会場に入ってもいないのに猛烈に泣きじゃくっている生徒がいた。
「ずいぶん気の早い奴がおるのう」
あきれたように視線をめぐらせた品田が、もっとあきれたように付け足した。
「なんや、誰やと思ったら、泣いてんのは唯香ちゃんやないか」
確かにそれは観月唯香だった。
さっきのハシャギぶりとは打って変わって、この世の終わりを迎えてしまったかのように嘆き悲しんでいるのだった。
その落差の大きさは驚くほどだ。
ひょっとしら、さっきのハシャギようは、卒業していく寂しさを紛らわせるためのものだったのかもしれない。
だとしたら、果たして僕の後頭部は唯香の寂しさを紛らわせるために役に立ったのだろうか? 叩かれ損だったら、ちょっと寂しいかも。
でも、やっぱりあんまり効果はなかったようだ。現に唯香は、他の女子生徒に肩を抱かれるようにして、よろめきながら会場に入り、ようやく席につくことができたといった状態だった。
唯香は座ってからも激しく泣きじゃくっていて、そのまま卒倒してしまってもおかしくないほどだ。
「うう〜ん。やっぱりアイドルの感受性は、我々一般人の常識を遥かに超えているなあ……」
岡村はまた手帳を取り出し、なにやらメモを始めた。
岡村はいずれこの明光学園での三年間を本にして出版するという計画を持っているのだ。
どんな本ができるのかわからないが、まあ同級生のよしみで、一冊は買ってやろうと僕は考えている。
そのとき、先生のひとりが壇上にのぼって静かにするようにマイクで注意した。
父兄たちもいるから、そんなに強く言わないが、それでも威圧的な空気が講堂の中を支配した。
しかし、一ヶ所だけ、どうしても静かにならない場所がある。それは唯香だ。彼女の泣き声だけが講堂の中に響き渡っている。
卒業式で泣いている生徒を叱ることもできずに、先生は困ったなあといったように顔をしかめて壇上から降りてしまった。
そのまま式が始まった。
校長先生たちが壇上に上ぼって、にわかに会場に緊張感が走った。
思えば、三年前の入学式で校長先生が話をしている最中に、生の瀬戸綾乃が初めて僕の前に現われて、空いていた僕の隣の席に座ったのだった。
それがこの明光学園での生活の始まりだった。そして、三年経ったいま、また僕の横の席は空いていた。
綾乃はまだ来ていない。
「ひょっとして瀬戸さんは、卒業式も欠席するのかな?」
僕の問い掛けに、うしろの席に座っている岡村はパラパラと手帳をめくり、
「ちょっと押しているのかな?(岡村注:押す=業界用語で時間が長引いているの意) でも、だいじょうぶ。もうそろそろ登場するはずだよ」
と自信たっぷりに言った。
いったいその手帳の中身はどうなってるのか、もし許されるなら覗き見してみたいものだ。
でも、岡村はけっして誰にも見せてはくれないのだが……。
そんなことを考えていると、誰かが僕の方に走ってくる気配がした。
ひょっとして……。
胸をときめかせながら振り向いた先には、急いで走ってきたためか、頬を火照らせて息を弾ませている瀬戸綾乃の姿があった。
綾乃は背をかがめて通路を駆け抜け、僕の隣の席に滑り込んで来た。
「はあ……、間に合った」
綾乃はホッと息を吐き、僕に向かって三年前と同じようにニッコリと微笑んだ。心臓がドキンとしたが、今回は僕も綾乃に微笑み返すことができた。
綾乃は髪の乱れを手櫛で直しながら、校長先生の話に被さるように講堂中に響いている鳴咽の源に視線を向けた。
「唯香ちゃんたら、すごいことになってるわね」
そう言って、綾乃は面白そうに笑った。しかし、その笑顔は長くは続かなかった。
在校生の代表が送辞を読み上げる段になると、綾乃も鼻をぐしゅぐしゅ鳴らし始め、校歌を歌うときには、もう肩を震わせながら涙を流しているのだった。
そのころには他の生徒たちもすでにチラホラ泣き始めていたが、それでもアイドルふたりの泣き方は半端じゃなかった。
「うう……、ふむふむ、やっぱりアイドルの感受性は素晴らしく敏感である、と……ううう……」
もらい泣きしながらも岡村はメモを取り続けいた。
そういうところは尊敬に値する。でも、彼女たちの涙を感受性だけで片付けてしまっていいのだろうか?
芸能活動と学校の両立は端で見ているよりも、きっと大変だったに違いない。
現に二年生のときに綾乃と関東スポーツにゴシップ記事を書き立てられた宝条瞬は、卒業を目前にしながら学校を辞めてしまっていた。
もう少しで卒業できるんだからと学校側は慰留に努めたらしいが、宝条は「卒業証書をもらうために学校に来てたわけじゃありませんから」と断わったと噂されていた。
そして、宝条はいま、ハリウッドに俳優修行の旅に出ているということだ。
ひょっとしたら、そんなに悪い奴じゃなかったのかもしれない、と僕は思っていた。少しは話ができたらよかったのに……。
そのことは、この三年間で心残りなことのひとつだった。
辞めるのも信念なら、卒業するのも信念だ。綾乃や唯香は他の女の子たちと同じように卒業式に参加したかったに違いない。
そのために、受験休みという名目で三年生は休みになっている一月二月のあいだも、綾乃や唯香は仕事の合間を縫って補習を受けたり、山のようなレポートを提出して、やっとのことで卒業式に参加することができたのだった。
そんな陰の努力があるからこそ、彼女たちにとって卒業するということはとても感動的なことなんだろう。
アイドルたちの頑張っている姿を思い浮かべているうちに、だんだん僕も胸が熱くなってきた。
こんな素晴らしい学園生活を送れたのも、綾乃たちがいてくれたからだ。
感謝の気持ちを抱きながら、綾乃の横でいつしか僕も同じように泣きじゃくり始めていた。
*
卒業式を終えた三年生は一度教室に戻って、担任の先生から卒業証書をもらう手筈になっていた。
そこでみんな別れを惜しんだり、再会を誓ったりするのだ。
僕は心に決めていた。
三年間、僕の心は観月唯香や桜井美奈子とか、いろいろな女の子のあいだを浮気に移ろったりしたが、結局一番好きなのは瀬戸綾乃だという結論に達していた。
もちろん、トップアイドルの綾乃が僕なんかと付き合ってくれるなんて思えない。だけど、僕は自分の気持ちを打ち明けたかった。
そのチャンスは今日しかないのだ、と自分を奮い立たせていた。
卒業式のあと、綾乃に告白しようと僕は心に決めていた。
在校生たちの歌に送られて、僕たちはぞろぞろと退場し始めた。そのとき、在校生の中から誰かが僕に走り寄って来て、花束を差し出した。
「おにいちゃん! 卒業、おめでとう!」
神楽ありす、本名鈴木恭子だった。送る側だけど彼女も泣いていたらしく、目は真っ赤になっていた。
ちょっと照れ臭かったが、僕は花束を受け取ってありすと握手をして、また退場する列に戻った。
品田が僕の脇腹を小突いて冷やかした。
「モテる男はつらいのお」
「そんなんじゃないよ」
僕は隣にいる綾乃の様子を窺った。綾乃は華奢な肩を震わせていた。ぎゅっと抱きしめたい気分になるが、もちろんそんなことはできない。
告白しようと決心していた僕は、緊張のあまり、口の中がカラカラに乾いてくるのを感じていた。それは切なくて苦しい時間だった。
でも、講堂から出たところでいきなり目の前が真っ白になり、僕のそんな切ない気分はいっぺんに吹き飛ばれてしまった。
耳を突ん裂くような歓声が僕たちを包み込んだ。目の前が真っ白になったのは、大量のフラッシュが一斉に焚かれたためだ。
塀の上から身を乗り出すようにして大勢のファンがいくつものカメラを向け、なにか大声で喚き立てていた。
明光学園には何人もアイドルが在籍しているために、毎年、卒業式には大勢のマスコミ関係者やファンが押しかけて来るというのが常だった。
それにしても今年は異常だった。
塀の上から顔を出している者だけじゃなく、その向こうにも大勢押しかけて来ているようで、地響きのように声援が沸き上がってきていた。
もちろんその声援が一番多く向けられている先は瀬戸綾乃だった。
CDグランプリを受賞してからの綾乃の人気は、以前にも増してすごい盛り上がり方だったのだ。
ハッと思って横を向くと、綾乃は涙に濡れた顔を強張らせていた。
なにか言わなきゃ……。綾乃はいま、とても傷ついているはずだ。なにか言ってあげなきゃ……。
でも、僕が声をかける前に先生が慌てて綾乃に駆け寄り、抱きかかえるようにして再び講堂の中に引き戻していってしまった。
「綾乃さん……」
僕の声はまわりの騒がしさに掻き消されて綾乃には届かない。
でも、講堂の扉の向こうに消える一瞬前に、綾乃は僕の方を向いてなにか言おうとするように口を動かした。
「え、なに? 綾乃さん、いまなんて言ったの?」
しかし、綾乃はそのまま講堂の中に消え、扉は硬く閉ざされてしまった。
綾乃の姿が消えるのと同時に、パトカーのサイレンが聞こえてきて、騒いでいたファンたちはざわめきを残しながらもおとなしくなった。
「綾乃ちゃん、かわいそう……」
まだ感動の涙が乾ききらないうちに、桜井美奈子は同情の涙を流した。
最後の最後まで、綾乃は普通の女子高生として過ごすことを許されなかった。それがトップアイドルの宿命だとしても、あまりにもかわいそう過ぎる。
「瀬戸さんは裏門から事務所関係者に守られながら帰ったようだよ」
教室に戻ると、岡村がどこから仕入れてきたのか、綾乃に関する情報を教えてくれた。でも、今日ばかりは岡村の事情通ぶりもなんだか疎ましく感じられるばかりだ。
窓から外を見ると、緑は瑞々しい。
風はまだまだ冷たいが、教室の中から見ているぶんにはもうほとんど春だった。でも、その春には、もう綾乃はいないのだ。
僕たちは今日で卒業してしまい、もう二度と親しげに言葉を交わすことはないかもしれない。
僕は小さくため息をひとつついた。
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