羽左 第 4 話 羽右 <3年生>

一応、僕たちは受験生だ。だからといって一日中、部屋に閉じこもって勉強ばっかりしてていいわけはない。

まだ受験の本番までは長い。その長い戦いを乗り切るためにも、まずは体力をつけなければならないのだ! というのが岡村の言い分だった。

もちろん、僕がその意見に反論するわけもなかった。というわけで僕と岡村は、品田を誘って三人でプールに遊びに来ていた。

夏休みのプールは大賑わいだ。ギラギラと輝く太陽の下、少女たちの楽しそうな笑い声があたりに溢れ返っている。

「青春やな〜」

と品田がしみじみとつぶやいて、

「まったくだ」

と岡村が同意する。

こんなことをしていていいのだろうか、と思いながらも、僕もウキウキしてしまっていて、まっさきにプールに飛び込み、監視員からピーピーと笛を鳴らされてしまったのだった。

でも、そんなことはおかまいなしだ。青春なんだから、少々はハメを外したってかまうもんか。

ずっと家にこもって勉強をしていたぶんを取り戻そうと、僕は泳ぎ続けた。

自慢じゃないが観月唯香に水泳を教えたのは僕なんだ。

その辺で水遊びをしている人たちに、そう教えてやりたかったが、もちろんそんなことはしない。

どうせ、信じてもらえないだろうし、僕と唯香だけの秘密にしておきたい気分もあったからだ。

「うはー。やっぱ、気持ちええわ。夏はプールに限るなあ」

プールサイドに上がった品田は、その場で数回軽く片足で跳んで、耳をトントンしながら言った。

「そうそう。そして、腹が減ったら焼きそばを食べる、っていうのが定番だよな」

同じようにトントンしながら岡村が続ける。

「お、いいねえ」

しょうがないから僕もトントンしながら言った。

と、そこで一瞬、みんなが黙り込み、あうんの呼吸で「最初はグー」の掛け声のあとに出されたチョキ&チョキ&パー。

そして、僕が買い出し係りに選ばれたのだった。

「ほな、よろしくな。わいらは、その辺で体を焼いてるわ」

そう言うと品田と岡村は軽やかにスキップをしながらプールサイドを駆け抜け、比較的女の子が多そうな場所を選んでゴロリと横になった。

その楽しそうな姿を尻目に、僕は売店の方へ、トボトボと歩き始めた。

「なんで、僕はこういう役回りばっかりなんだろう」

ひとりで愚痴を言っていると、向こうの方からプールサイドを歩いてくるナイスバディの女の子の姿が目に入った。

プールからあがったばかりらしく、全身から水が滴っている。まさしく水も滴るいい女だ。

やっぱりプールの醍醐味は、こういうナイスバディの水着姿の女の子を見ることにあるような気がする。

でも、宝条のようなやつだったら見るだけじゃなく、きっと気軽に声をかけて仲よくなっちゃうんだろうなあ。

僕もそういう人生を歩みたいよ〜、なんてことを考えていると、その娘が僕に向かって手を振っているようだ。

ひょっとして逆ナン? と思って胸をときめかせた僕に向かって彼女が「相原く〜ん」と親しげに声をかけて、ようやく僕はそれが桜井美奈子だということに気がついた。

水着姿の美奈子は普段とは全然印象が違っていた。

 普段はどちらかといえば真面目な学級委員っぽい印象なのが、いま目の前にいる彼女はとても妖艶な感じだ。
「高校三年の夏休みにこんなところで会うなんて、私たちって駄目な受験生かもね」

そう言いながら、美奈子が濡れた髪を掻き上げた。水滴が白い肌の上を流れ落ちる。

 思わずじっと見入ってしまっていた僕のすぐ横で甲高い、完全なるアニメ声が響いた。

「ぶ〜! 目付きがいやらしいですぅ〜!」

その声は!

 振り向いた先には神楽ありす、本名鈴木恭子がフリフリがいっぱい付いた少女っぽい水着を着て立っていた。

こっちはさすがに生唾を飲み込む必要はない。

「ぶ〜! ガキンチョ体型だと思ってガッカリしたですぅ〜」

まるで本物の小学生のようにありすは僕にじゃれついてくる。どうやら好かれているようだ。それはうれしかったが……。

僕は助けを求めるように美奈子に視線を戻した。

「もう泳いでたんだ?」

全身がびっしょり濡れているのだからそうだろうと思っただけだ。でも、美奈子は少し恥ずかしそうに首を傾げた。

「泳いでたっていえば泳いでたんだけど……」

「子供用のプールでね」

ありすが横から割り込んでくる。それは君でしょ、と突っ込もうとしたが、どうやら本当らしい。

「私……泳げないの。だから、足がつかないようなところは怖くって」

こんなナイスバディが膝ぐらいまでしか水がない子供用のプールで泳いでいるなんて……。ありすならハマリすぎて怖いくらいだけど……。

僕が女の子と話をしているのに気がついた品田と岡村が、ナンパでもしていると思ったのか、すごい勢いでプールサイドを走り寄ってきた。

しかしそれが桜井美奈子だということに気がつくと、目を見開き、なんとなく照れ臭そうに視線を逸らすという、僕と同じような反応をみせた。

「いつも一緒で仲がいいわね」

「いやあ、そんなこともないんですが……」

なぜだか岡村は敬語でそう言って、ボリボリと頭を掻いた。

「そうや、わいら、焼きそばでも買いに行ってくるわ。この辺で待っててや。ほなな」

品田がしどろもどろでそう言って僕の腕を小突き、僕たちは愛想笑いを浮かべながら後ずさった。

そんな僕たちの様子に、美奈子とありすは顔を見合わせて、あきれたように笑った。

「いやあ、ほんまびっくりしたわ。わいとしたことが、美奈子ちゃんの魅力を見落としてたで」

美奈子たちから大分離れて、やっと品田はいつもの調子を取り戻した。

「右に同じ。彼女もデビューすれば、間違いなくトップアイドルになれると俺が保証するよ」

裸でいるために手帳を持っていないので、岡村は少し手持ち無沙汰な感じでそう言った。

「ほんとうだよな。普段と全然印象が違うんだもんなあ」

僕も彼らに同意した。

でも美奈子はアイドルになりたいとは思わないだろう。彼女はいま、アナウンサーになるために猛勉強している。

そして、ちょっとした息抜きのためにプールに遊びに来ただけだ。リフレッシュしたら、また猛勉強をするに違いない。

アナウンサーは、ただ華やかなだけの仕事じゃない。政治や国際情勢についてもきちんと知識を持っていないとだめなんだ。

だから、彼女の存在をナイスバディというだけで評価しちゃいけないと思う。

……いけない、とは思うが、目を閉じるとその水着姿が浮かんでくるのはしかたがないだろう。ごめんね、桜井さん。



両手に焼きそばが盛られた紙皿を持って美奈子たちのところに戻ろうと品田たちとゾロゾロ歩いていると、なにか重いものが水に落ちた音と甲高い悲鳴が同時に聞こえた。

なにげなくそっちに視線を向けると、プールサイドでありすが小さな体を震わせるようにして悲鳴をあげていた。

そして、そのすぐ目の前でプールの水面が白く泡立っている。

 細い腕ががむしゃらに水を叩いていて、時折水面に顔が覗いた。それは桜井美奈子だ。

「桜井さん!」

ふざけて水遊びをしているわけではないことはすぐにわかった。美奈子は泳げないはずなのだ。

「おねえちゃんは泳げないの! ありすがふざけて脅かしたら落ちちゃって……。助けてあげて! おねえちゃんが溺れちゃう!」

焼きそばの皿を放り投げて慌てて駆け寄る僕に向かって、ありすは大声で繰り返した。

そんな説明を聞くまでもなかった。僕は考えるよりも早くプールの中に飛び込んでいた。

美奈子は意識を失ってしまったらしく、もう手足を動かすことなく水中に沈んでいこうとしていた。

僕はぐったりしている美奈子の体に腕を回し、そのままプールサイドまで運んだ。

気を失っている美奈子の体はとても重くて、品田と岡村の力を借りて三人掛かりでやっと引き上げることができた。

「監視員は? 監視員はおらへんのか?」

品田が大声を張り上げながらまわりを見回したが、監視台には誰もいない。

「こんな大事なときに……。しょうがない、俺が探してくるよ」

岡村が監視員を探しに駆け出して行った。

美奈子はぐったりと横たわっていて、呼吸をしていない。

大量に水を飲んでしまったのだろう。顔色は青白い。

「おねえちゃん! 美奈子おねえちゃん、しっかりして!」

「ちょっと下がってて」

このままじゃ危ない。泣きじゃくっているありすを押し退けて、僕は美奈子の胸に手を置いた。

その柔らかさにドキッとして思わず手を引いてしまったが、そんなことを気にしている場合じゃない。

中学のとき、保健の授業で人工呼吸の仕方を習ったことがあった。

 どういう理由だったか忘れたが、僕はみんなの代表ということでみっちりと教え込まれた。

そのときのことを思い出しながら、僕は再び美奈子の胸に手を置き、心臓の鼓動のスピードで繰り返し押した。

美奈子の口からゴボッと水が吐き出された。

「やった!」

品田がうれしそうに言ったが、でもまだ美奈子の呼吸は止まったままだ。あんまり長くこの状態が続くと危険だ。

こうなったら……。

僕はとっさに美奈子の鼻をつまみ、彼女の口に自分の口を押しつけ、彼女の肺の中に大きく息を吹き込んだ。

がんばれ! がんばれ、桜井さん! お願いだから、息をしてくれ!

心の中で声をかけながら、僕は何度も何度も息を吹き込み続けた。

すると、不意に僕の肺になにか押し返してくるような感覚があった。

唇を離すのと同時に、美奈子が激しく咳き込んだ。

僕はその場にへなへなと座り込んだ。やった。美奈子は助かった。

「おねえちゃん……ごめんね、美奈子おねえちゃん……」

ありすは泣きながら美奈子の背中をさすり続けた。

「やったな、和也。あの理不尽な授業の成果が出たやないか」

そう言いながら品田は自分の唇を手の甲で拭ってみせた。

そうなのだ。僕が保健の授業でマウス・ツー・マウスの練習をさせられた相手は、なにを隠そうこの品田なのだった。

ハッキリ思い出した。

なぜ僕が人工呼吸の練習をみんなの代表としてやらされたかというと、その日、僕と品田は授業をちゃんと聞かずにふざけてばかりいて、そのせいで先生の逆鱗に触れ、授業の後半はみんなの前に出されて集中的に指導されたのだった。

そして、なんと溺れた人役の品田に僕がマウス・ツー・マウスの人工呼吸をさせられたのだった。

さっきの人工呼吸は必死だったせいか、僕の唇には美奈子の唇の感触は残っていなかった。残っているのは品田の唇の感触だけだ。

げえッ。

僕が吐き気を覚えたそのとき、ようやく岡村が監視員を連れて戻ってきた。

僕と品田は顔を見合わせてホッと息を吐いた。





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