羽左 第 3 話 羽右 <2年生>

カラッと晴れ渡った真夏の沖縄から帰って来きた東京は、ジメジメと湿っぽい梅雨の真っ最中だった。

ねずみ色の雲がどんよりと低く垂れ込め、なんにもする気がしない。

 修学旅行が終わった僕たちは、なんだか気が抜けたようになってしまっていた。

おまけに僕の場合は恋患いを併発していた。その相手はもちろん瀬戸綾乃だ。

綾乃と一緒に海で遊んだことが、熱にうなされているときに見た夢のように脳裏から離れないのだ。

そんな感じで、僕は毎日、ただぼんやりしながら過ごしていた。

 そして、そんな僕の弛んだ気持ちを引き締めるためなのか、すぐにテストの季節がやってきた。

中学のころはそんなに勉強しなくても、そこそこの点数は取れたのに、高校になるとなかなかそうもいかない。

だいたいみんな同じぐらいの学力の人間が集まってるので、ほんのちょっとの努力の差が順位にして何十番も変わってくるのだ。
そろそろ僕も少しは真剣に勉強した方がいいかもしれない。あんな悪友たちと付き合ってちゃだめだ。

 僕は更生を誓って、品田たちの追跡をまき、図書館に足を踏み入れた。

入学以来、僕はほとんど利用したことはなかったが、図書館では大勢の生徒が勉強していた。

こりゃあ僕の成績が落ちるのもあたりまえだ。

図書館の中はシンと静まり、鉛筆の芯が紙の上を滑る音だけだ微かに響いていた。その緊張感に、自然と身も引き締まるというものだ。

空いている席を探して何気なくまわりを見回すと、知っている顔を見つけた。桜井美奈子だ。

真剣な表情でノートに向かっている美奈子は珍しく眼鏡をかけていた。

 普段はかけてないので、まわりの雰囲気とあいまって、すっごく頭が良さそうに見える。

僕は美奈子の横の席に腰掛けた。

「こんにちは」

そう声をかけると、美奈子だけじゃなく、全員が一斉に顔をあげて僕を見た。

中には口の前に人差し指を当てて、「シー」なんていう人もいる。私語厳禁ってことか。僕は素直に口にチャックをした。

あんまり強く自己主張しないのが、僕の長所なのだ。

〈珍しいわね。相沢君が図書館に現われるなんて〉

美奈子がノートにさらさらとそう書いた。筆談だ。なんて頭が良さそうなコミュニケーション手段なんだろう。

〈まあね。これからは心を入れ替えて頑張ることにしたんだ〉

と僕もさらさら。

〈いい心掛けね。頑張って〉

と美奈子もさらさら。

〈眼鏡、似合ってるよ。頭良さそう!〉

〈ありがとう。うふふ〉

ちゃんと照れ臭そうな笑い声までさらさらと書くと、美奈子はまたノートに向き直り、眼鏡の奥の目が真剣になった。

しょうがない。これ以上筆談での無駄話に付き合わせるわけにもいかなくて、僕も用意しておいた数学の問題集を開いてみた。


問題1 f(x)=x^3−3x+5=0 の3解をα,β,γとする。α^3+β^3+γ^3の値を求めよ。

いきなりチンプンカンプンだ。途方に暮れていると、横から手が伸びてきて、さらさらさらと数式を解き、美奈子はさらに細かく解説までさらさらさらッと書き込んでくれた。

〈すごい!〉

尊敬の眼差しを向けると、美奈子は今度は本当に恥ずかしそうに顔を背けてしまった。相当勉強しているようだ。

そういえば美奈子は将来、どんな職業に就きたいんだろう?

綾乃や唯香ばかりが夢を抱いていたわけじゃなくて、美奈子もなにか夢はあるはずだ。アイドル? ではないような気がするけど……。

〈桜井さんは将来どんな仕事に就きたいの?〉

僕はさらさら。

〈……私はアナウンサーになりたいの〉

さらさらさら。

〈えッ?〉

さらッ。

そう言われてみれば、美奈子は理知的で、それでいて華やかさもあって、確かにアナウンサー向きかもしれない。

自分から訊いておいて、僕は美奈子がそんな確固たる目標を持っているということに戸惑ってしまった。
〈相原君は?〉

来た! 質問返しだ! え〜と、僕は……。

高校二年生で、そんなにちゃんと将来の目標を言える人間がいるだろうか?

 とりあえず僕は、笑顔でごまかすしかなかった。



そして、問題の期末試験の結果だが、両親、友だち、みんなの予想よりも段然よかった。もちろん僕自身の予想よりも。

それはすべて美奈子のお陰だ。実は美奈子と偶然会って以来、一緒に図書館で勉強することが習慣になっていたのだ。

それはもちろん勉強が楽しかったからというわけではなくて、美奈子と過ごすちょっと知的な時間に魅せられていただけなんだけど……。

ようするに格好から入っただけなのに、それなりに効果はあったというわけだ。

でも、その知的な習慣も、夏休みに入ってしまったために自然に消滅してしまった。

そして、また僕は自堕落な生活に戻っていった。






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